やはりミュージック不要

本日も地脚作りにランニングでLSD 自転車運動も含む、ほとんどの運動に共通する最重要筋肉群にしっかり負荷がかかっているのを意識出来ているからこそ、このかったるい練習も淡々とこなせ「またやりてー」とさえ思う 尊敬するアスリートはこう語っている 同じ練習をしていても、何を感じな...

旧blog内でも、ローラーやランニングの際に音楽はかけていないと語ってきた。

自分の身体と対話することに集中するほど、音楽などうっとーしくてイヤホンを投げ捨てたくなるからだ。

今日は思わず膝を打った言葉をひとつ。

生きることと引き替えに、現代人は、際限もないうるささに耐えている

『マチネの終わりに』より

 ギタリストとジャーナリストの甘く切ないラブロマンスを描いた平野啓一郎の『マチネの終わりに』より抜粋。

知的な言葉の連なりに、アコースティックギターの硬質で艶のある音色が絡み合いながら物語は進む。互いに思い合う2人を運命は無常にも引き離そうと、それぞれの時間をシンコペイトしてゆく。

再読しても、読み終えるのをためらいながら行きつ戻りつしてしまう。

「生きることと引き替えに、現代人は、際限もないうるささに耐えている。音ばかりじゃない。映像も、匂いも、味も、ひょっとすると、ぬくもりのようなものでさえも。

……何もかもが、我先にと五感に殺到してきては、その存在をめいいっぱいがなり立てて主張している」

主人公のギタリストの心情である。

現代はあまりに騒々しい。

にもかかわらず、これでもかと追い打ちをかけるように社会は情報を垂れ流す。

壊れたラジオのように、延々と。

「人類は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける。

─誰もが、機械だの、コンピューターだののテンポに巻き込まれて。五感を喧騒に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフー言って生きている。痛ましいほど必死に。

そうしてほとんど、死によってしかもたらされない完全な清寂。……」

と、ギタリストは現代人の姿を炙り出す。

うるさくなればなるほど、音もなく、映像もなく、匂いも味も、そしてぬくもりも、一切が消えてなくなってゆく。

静寂の中にこそ、本当の音も映像も匂いも味も、ぬくもりだってあるというのに。

世の中の騒々しさは、現代人の心の現れ。

雑音にまみれた心は乱れ、落ち着きを失ってゆく。

うるささに耐える必要はない。

静けさを求めさえすれば、必ず求めるものは見つかるのだから。

休日に人ごみを避けるように好んで過疎地(笑 へ自転車で繰り出すのは、心の奥底で静寂をもとめているからであろう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォロー頂けると小躍りします